みらくるなんてこった

ども、みらくるぱんだです。

タンドール初めしてきた

朝、グラノーラ。すみません、寝坊しました。

急いで大学へ。某メールをなんとかなんとか送信。

お昼、ベジカレー。ひとつはふつうのベジタブルカレーで、もうひとつはカリフラワーとジャガイモのドライカレー。カリフラワーうんまい!

図書館で本を読もうと。だけどあんまり頭に入らなかったー。あと、ここんところ左目が痛くて、ものもらいかもしれない。免疫力が落ちてるのかな。ちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝ます。

夜、スーパーで買ったお惣菜。けっこうお腹いっぱいになった。ゴボウのサラダがおいしかったよ。

言い訳ばかりの人生なんて嫌ですよね。後悔ってなんだろう。信頼ってなんでしょう。なぜ私たちは生きるのか。そもそも私ってなんなの。まったくわかりません。哲学は誰かの人生を助けてくれるんですか。なんか悲しくなってきた。あ、そうそう。今日読んだところを書き留めておこう。のちのち、自分でもよく考えます。

ケアの倫理によって、感情主義に沿った形で実践的合理性について説明できるようになることを具体的に示そうと思う。まず自分自身の福利に対する配慮は、実践的合理性によって含意される動機の中でも最重要なものだということが判明する。そうだとすると、手段 - 目的の合理性および意志の弱さの回避に関わる合理性はいずれも、「自分自身の福利への配慮」という動機の観点から理解されなければならないことになる。しかし、だからといって、合理的であることと、道徳的であることの間に、何らかの基本的な対立や不整合がもたらされるわけではない。それどころか、ケア関係は、利他的な動機と自己配慮という動機、その両者の混合ないし融合によって維持されるように思われる。(マイケル・スロート(2021)『ケアの倫理と共感』、早川正祐・松田一郎=訳、勁草書房、12-13頁)

まあでも、簡単に自分なりの言葉でなにかものを言ってみるか。この引用部までで著者は、ケアの倫理の観点から実践的合理性を完全に否定することは得策ではないとしてる。つまり、ケアの倫理からしても実践的合理性は必要なんだってことですかね。ところで、僕がむむっときたところ、「自分自身の福利に対する配慮は、実践的合理性によって含意される動機の中でも最重要なもの」とされている。実践的理性をはたらかせる動機はいくつかあるのだけど、そのうち自分が幸せになるということが最重要だとみなされるってこと?ちょっとよく理解できてないっす。

つづいて、「手段 - 目的の合理性および意志の弱さの回避に関わる合理性」とあるんだけど、よくわからない。これはなんだろ。そのまんまの意味かな。そのあとは何となく理解できるかも。利己的であることと利他的であることは対立しませんよ、両立しえますってことか(ここで利己的としたのはあえて表現するならということで、著者からすれば「自分自身の福利への配慮」は決して利己的であるとはならないのだろう)。

まとめると、感情主義的合理性はある。そもそも、なぜ合理性が問題になるの?という問いには、たとえケアの倫理論者が感情を重視するとしてもある程度の合理性は必要とするから。なるほど、私たちにとって合理性が大切だというのはわかった。その合理性は自分自身の福利への配慮から要求されている、と。だから、ケアの倫理の観点においては、もちろん他者との関係が大切なので他者の福利は考慮に入る。では、自分自身への配慮はなくていいのかというと、ぜんぜんそんなことはない。他者の福利と自分自身の福利の両方を大切にしなきゃならん。そりゃそうだ、ケアし合う関係においては他者にとっての福利は自分自身の福利であるから。...という感じですかね。まだよくわかんないけど。終わりまで読んでみてまた振り返ることにします。ちなみに、著者マイケル・スロートは正義に対する補完役割としてのケアという立場ではなくて、ケアの倫理は正義に対抗できる、優越すらしている包括的な理論であると考えてるみたい。

感情がぐっちゃぐちゃになってきた。おやすみなさい。